【特定アジア】東アジアのルール“儒”とその華夷秩序


前回までに紹介した1800年ごろの東アジア情勢。

なぜこんな偽りだらけの、だましだましの、よく言えば“大人”の関係だったのか。答えは“儒”だ。

紀元前に孔子が創始し、発展してきた“儒”はこのころの東アジアの唯一のルールであったといえる。

“儒”は簡単に言ってしまえば、親(並びに祖先)に対する孝と、臣下の君に対する忠を中心とした、社会という範囲で言えば士農工商の内なる秩序と、自分と他という意味での外に対する華夷秩序(自分が中心という意味での華、それ以外は野蛮人・夷としての他)を統合し、これを強化維持していくことで社会的安定を図り、統治システムの柱にするということ。

華夷秩序だから、自分たち以外の対等なものは外にはいない。他はみな野蛮人だ。人すらでもない。夷は獣程度の意味と考えたほうがよい。ただし、華の周辺部に住む夷が華に対して朝貢してきたら、これを国と認め、国王の称号を授ける、というのが冊封体制だ。

獣から、人に昇格できるわけだ。

つまり、当時の日本は中国から見れば獣扱いであり、前述した見て見ぬ振りというのは妥当ではないかもしれない。

「朝貢もしてこない獣ども(江戸幕府)が勝手なことをやっている」程度の認識だったかもしれない。

中国はそういうものの考え方をする国であり、いわゆる中華思想もこれが源になっている。

一方の朝鮮。

早い段階から中国で生まれた“儒”を受容し、徹底した。現在の朝鮮・韓国人が中国人風の名前になっているように、それこそ徹底的に中国の“儒”を取り入れた。

現在の朝鮮・韓国人が中国人風の名前になっているのは、その始まりはよく分かっていない。強制されたのか、自分で取り入れたのか。

明確な資料がないから後者の可能性が高いとされている。何らかの強制力が働いたならば、資料としてより明確に残りそうだからだ。

もしそうであれば、自分たちから進んで異民族の命名法を取り入れるというのは尋常なことではない。当時の朝鮮の人々の“儒”を含む中国受容の必死さが伝わってくる。

そうでもしなければ、中国と陸続きの朝鮮は、いつ中国に侵攻されるか分かったものではない。いや、実際、中国が唐(618年-907年)の時代の前後は頻繁に朝鮮に侵攻していた。後に触れるモンゴルも、女真族も朝鮮を攻めた。これは恐怖だ。

そのおかげかどうか、朝鮮は中国の周辺国としては最も“儒”に精通した一等国だった。その証拠に、中国の朝貢国の中で、朝鮮は基本的にいつでも第一等の席次が与えられた。ただし、東アジアの激動は、その朝鮮の中国に対する見方に変化をもたらせることになる。

写真は孔子。(World Eyes編集S/Y)

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