【特定アジア】日中朝、いずれも自分たちが“中華”だと思っていた時代


清王朝の創始者であるヌルハチ。清太祖天命皇帝朝服像(北京故宮博物院蔵)漢民族の王朝である宋(960年-1279年)は北方の異民族の脅威におびえ、最終的にはモンゴル族によって滅ぼされる。モンゴル族の王朝が元(1271年-1368年)だ。

その元は、漢民族の明王朝(1368年-1644年)によって取って代わられることになる。しかしその明王朝も、異民族である女真族によって滅亡し、女真族が清王朝(1644年-1912年)を打ち立てる。

こうみていくと、宋以降、明が例外で、中国本土はほとんど漢民族ではない異民族が主役になっている。

これを“儒”の考えで解釈すると、華夷秩序が成り立たなくなるのは言うまでもない。夷が華に取って代わられている状況だから、根本的に矛盾する。もっとも、清王朝も時代が流れると、自分たちが華だと思う、いわゆる中国化が進んでくる。

しかし朝鮮から見れば、本家本元、本場の中国のこの状態は、「体たらく」と映ったのは推測に硬くない。

自分たちは一生懸命“儒”を取り入れてきた、中国がそのような状態であれば、むしろ自分たちのほうが本家なのではないか、と思うということだ。

これは朝鮮ばかりではない。日本でもそう感じられた、そういう空気があった。清王朝の明からの交代が1644年、まさに江戸幕府成立直後のことだったことも関係している。

さて日本だが、“儒”そのものはかなり昔から入ってきてはいた。むしろ仏教が日本に伝わるより前という説もあるぐらいだ。しかし、完全な形で公式に取り入れられたのは徳川家康によって、つまり江戸幕府からと言える。

戦国時代を勝ち抜いてきた徳川家康は、戦国のころには同格だった大名を今度は統制する必要に迫られた。そこで、“儒”の特に君臣の秩序に目をつけ、これを奨励することで、徳川家の絶対性や他大名に対する優位性を打ちたてようとした。

江戸時代も半ばを過ぎて、後半になると、日本でも“儒”は大いに栄えた。しかし家康の狙いとは違い、この“儒”こそが徳川家による独裁政治に終止符を打つことになるのだが、それはともかく、意識の中では日本も朝鮮並みに“儒”が根付いていた。

要は、1800年ごろの東アジアというのは、中国、朝鮮、日本ともに“儒”が完全に定着しており、しかもここが重要だが、三か国ともそれぞれ自分こそが“華”だと思っていた、と言うことだ。

写真は、清王朝の創始者であるヌルハチ。清太祖天命皇帝朝服像(北京故宮博物院蔵)(ウィキペディア)(World Eyes編集S/Y)

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