【特定アジア】「尊王攘夷」が今でも東アジアの根底にある


朱子徳川家康が採用したのは儒教の中でも朱子学であり、井沢元彦氏はこの朱子学を「儒教の中でも最も保守的な考え方をするもの」と位置づける。

朱子学は、中国の宋の時代、朱子によって確立されたが、宋は異民族と最後にはモンゴル族によって滅ぼされる歴史を持っていることから分かるとおり、“夷”に悩まされ続けた“華”だった。そのため、“夷”に対してはとことん排他的な思想になっているのが、朱子学の特徴の一つと言える。

それも含めて、「尊王攘夷」こそが儒教、特に朱子学の一つの行き着いた回答と言えるかもしれない。尊王は内なる秩序、つまり親子、君臣の秩序や士農工商などを、王に対する忠義を前面に打ち出すことでそれを代表させ、攘夷は外に対する秩序、自分以外の存在を認めず、朝貢しなければ、討伐の対象とする、という考え方だ。

攘夷はともかく、尊王については、忠よりも孝が優先されるというのが儒教のもともとの考え方だから、拡大解釈もはなはだしいと言えるが、朱子学が宋という中国歴代王朝でも軍事的には最弱の王朝で、異民族にやられっぱなしであったがために、逆に国内の意思統一という意味で、尊王に集約させたのかもしれない。

それはともかくとして、幕末を語るにはこの「尊王(尊皇)攘夷」を省くわけにはいかないが、それと同時に、現在の東アジア、特に特定アジア問題も結局はこの問題なのではないかと考えるわけである。

幕末に倒幕運動が盛んになって、尊皇攘夷が広く叫ばれることで、徳川家の天下は終わった。そして、天皇親政の明治憲法下でも、尊皇攘夷は基本的には維持される。

尊皇はともかく、攘夷に関しては明治に入って諸外国と外交通商を行うことで薄れていったと思われがちだが、それは富国強兵の必要からの友好増進であって、鬼畜米英という言葉が表しているように、昭和20年の敗戦まで、日本は基本として「尊皇攘夷」を基本路線としており、朝鮮併合、対中侵略にもその影響は見られるし、それがあったからこそ行われた、と言える。

それが敗戦で全て変わった。天皇陛下は人間宣言をするし、鬼畜米英は進駐軍万歳に変わった。「尊皇攘夷」は表面上180度転換することになったわけだ。

写真は朱子、本名は朱熹。1130年10月18日(建炎4年9月15日)誕生、1200年4月23日没。(ウィキペディア)(World Eyes編集S/Y)

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